遙か5夢

慎太郎とその妻
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07.泡鳥







険しい山の如し入道雲は空に昇り、空行きかう鳥は全て射殺されたか、灼熱の日差しは鋭く、燦々と大地を照らしている。
陽炎の揺らめきに共鳴する如くじわじわ鳴く油蝉の演奏は絶え間なく、暑さにつられた汗は肌を滑りて大地へと落ちていった。
夏の日差しを受け、すくすくと育つ柚木の海は青々とその状態を語る。柑橘を好む揚羽の干渉を防ぎ切った故の夏の繁々とした海を見られていると思うと、慎太郎の胸には感動の熱が灯った。

夏のそれとは決して交わらない温かなそれは心地よく、弧に歪んだ口をそっと隠して近くの農民へと声をかける。柚子は乾燥を苦手とするから西日の時刻には十分に水を撒くようにとの言葉も締まりがない。
「ええ、ありがとうございます、庄屋さま」笑う目尻に寄った皺の間に溜まる皺を、手拭いで拭き取りながら民は言う。けれども全てが見透かされていたのだろう、人の良い笑顔には夏の暑さだけではない熱がしっかりと籠っていた。

いとおしい。
慎太郎は民に別れを告げて次の畑へと向かう。生温かい風は変わらず畑を道を駆けては夏をありありと見せつけていくのだが、心に吹いた優しき風はただ幸福だけを描いてひっそりと去っていく。
ただ存在を匂わせ、何も言わずに去っていく。言葉などいらないと、無償で包み込むそれはどこかやはり愛情に似ていた。


目が溶ける程に真っ青な空に浮かぶ純白の雲に囚われる。ちかちかと星が瞬くような鮮烈な白が眩しくて慎太郎は目を逸らした。
出かける間際、今日は一等暑いので、と麻地の衣を用意してくれたリンの読みは当たっていた。事実、腰に提げた水筒の中身はとうに空になっている。
一歩進むごとにくらりと揺れる視界は、どれだけあるけども先の見えない砂漠のようにさえ見えて、水を求め一歩を踏み出せば嘲笑うかのように逃げ水が去っていく光景ばかりだ。

リンを置いてきて本当によかった。
この暑さではさすがにリンでは耐えかねる部分もあっただろう、回り方を違えたか、補水場所へたどり着けない今日の巡回では、鍛え損ねている彼女は倒れてしまっていたかもしれない。


「…それにしても本当に暑い」


この気温下で農作業に従事している民の逞しさに慎太郎は閉口する。それも復興の為にと民一人一人が協力し、力を合わせているのだとしたら。
慎太郎にとってこれほど嬉しい事はなかった。大業を志す意思は尊く支援すべしと思うが、誰しもがそれを目指す必要はないと考える。
各々が出来る事を全うする―――それが誠の“大業”であり、国となるのだから。


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焼ける道を進む足取りは重く、行き先が邸であるというのに速度を増させることが出来なかった。麻の衣は風通しは良くとも、それでもこの暑さの前では汗にまみれては足に張り付き、一層往く足を留めにかかるのである。

いつもならばそんな煩わしささえ、夏の風物詩だと笑い飛ばせるのには、やはり隣にいる存在あってこそかと慎太郎は深く感じ入る。
つ、と顎に伝う汗を乱暴に拭き取れば、不意に思い出す柔らかな綿の質感。それはリンの小手拭いだった。

彼女は同じ気温を過ごしているにも関わらず、いつだって涼やかな表情で佇んでいた。汗といっても肌を潤わすささやかな程度で、まるで彼女の分まで発汗していると言わんほどの慎太郎の様子にいち早く気付いては、そっと小手拭いをあてて、それを浚っていた。
その度に気恥ずかしさから「童ではない」とお決まりの言葉を吐いてはいたが、彼女はからから笑うだけで決してそれを改める事はなかった。

「あなたが頑張って汗をかいたなら、それを鎮める為にリンが頑張り、汗をかきます」
仕事を終えひと段落つく頃、リンは決まって大きな団扇を持ち出しては慎太郎を仰ぐのだ。ぱたぱた、ぱたぱたと優しい風は甘い香りを乗せて熱を逃がしていく。
その時間が慎太郎は密かに好きだった。


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そんな思い出に浸りながらようようたどり着いた邸の前、数珠のような水跡が広がっているのを目にする。内水だった。
やはり隣に妻がいない今、慎太郎にその夏の光景を味わう余裕もなく、転がるように玄関前のひさしの下へと避難してどっと腰を下ろす。
こんなところに座っていては着物が汚れると叱られるかもしれないと思いながらも、水分不足の体には、尻と地面とが一体化しているようで動かす気力も残っておらず、だらり伸ばした手足から一刻も早く熱が逃げるのを待つばかりだった。

ふと視界に入るは、内水の手桶と柄杓で思わずその中に頭を突っ込んでしまいたい衝動が沸き起こる。どうせ着替えるのだろうし、この暑さならば水はあっという間に乾くだろう。
そんな言い訳をいくつか用意して、慎太郎は手桶を掴み、持ち上げたのだが、それを被る事はなかった。リンが現れたからである。
しかしどうしてだろうか、妻の顔ははっきりと映り、口が動いているのが見えるのに、肝心の声が聞こえなかった。


「リン、さん」


とうとう視界もぼやけてきたと思ったところで、慎太郎は意識を失った。
真っ暗になるその直前に見えた妻の悲しげな顔の、真意に触れられない事を嘆きながら。



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